かなりアクの強い仕上がりの映画【47RONIN】は、どこが忠臣蔵?とツッコミたくなるハリウッド版時代劇。
キアヌ・リーブス主演で、元KAT-TUNの赤西仁さんがハリウッドデビューした作品としても話題になりました。
赤穂四十七士がモチーフですが、この映画を観てしまうと忠臣蔵がどんなお話だったのかも吹っ飛びます。
ということで、有名な忠臣蔵に関する雑学トリビア「REONさんの赤穂義士ぶらり旅」をお届けします。
「忠臣蔵」は赤穂事件を元に作られた創作物語
「忠臣蔵」は最初から最後まで史実に基づいた歴史ではありません。元々は実際にあった江戸城内での赤穂事件「殿!殿中にござる!」をのちに脚色した人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつです。
え、史実じゃないんだ。
ほとんど史実に近しい部分が多いが、歴史に残る「赤穂事件」とその後を正確に記してるわけじゃないんだよ。
事件が起こった背景や、仇討ちをした四十七士を「赤穂浪士」と呼んで浪人として描いている部分は、明治時代の作家・大佛次郎が用いた表現が一般に広まったからなんです。
「殿中にござる」事件が起こった時代や関わった人物は史実どおりなんですけどね。
主君の暴挙、そして切腹
ほとんど史実に近しい部分、それはこんな部分が実際にあったお話です。
- 元禄14年、旧暦3月14日(1701年4月21日)、江戸城内で刃物傷害事件発生
- 赤穂藩主・浅野内匠頭が御乱心。松の廊下にて吉良上野介を切りつける
- この日場内では時の将軍・徳川綱吉が朝廷からの使者を接待してる真っ最中
- 時と場をわきまえない事件勃発にご立腹の綱吉は、浅野内匠頭に切腹を言い渡す
- 浅野家は藩主の任を解かれ、赤穂城も幕府に明け渡し
- 浅野内匠頭は切腹言い渡しから数時間後、即日切腹
なんで吉良に斬りかかったのかは不明なの?
そこは浅野内匠頭が吉良上野介に対して恨みがあったとか、吉良上野介がわざと斬られるように仕向けたとか、いろんな説があるみたい。
…とこれがまず第一の歴史に残る赤穂事件ですね。
仇討ち計画、いざ吉良邸へ
第二の歴史に残る史実の部分。それは浅野家に仕える四十七士の一連の行動です。
- 主君・浅野内匠頭の起こした殿中ご乱心は確かに裁きを受けても仕方がない
- この時代、裁きは喧嘩両成敗
- 裁かれたのは浅野内匠頭のみで吉良上野介はお咎めなし
- 主君だけ切腹沙汰は納得いかぬ
- 赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助を中心に籠城や切腹といった幕府への反発を計画
- 浅野家お家断絶の危機になるから反発は中止
- 浅野内匠頭の弟・浅野大学を新たな主君に赤穂藩復興を目指す
- 浅野大学の閉門が決まり、お家再興も閉ざされる
- こうなったのは吉良のせい、と仇討ちを決定
…といきなり「殿中でござる事件」があったからすぐさま仇討ちしようとはしていなかったのが史実ですね。
忠義を貫いた武士道精神
でも結局は吉良邸に乗り込んで仇討ちするのは史実なんでしょ?
うん。ただね、浅野内匠頭が切腹したとき将軍・綱吉から「仇討ち禁止」を言い渡されてたんだよね。
そう、ここがのちに「忠臣蔵」という名で語り継がれるようになった理由になってます。
幕府から禁止令が出されてるということは、主君のために復讐を果たしたら幕府に背いた罪人に成り下がるということ。
それでも忠節を尽くして命をかけたから「忠臣蔵」か。
そう。で、主君の仇である吉良を討ち取ったのが、実際史実で元禄15年。旧暦の12月14日だから年の瀬の一大事件だったってことだ。
吉良上野介への仇討ちを果たした赤穂四十七士は、幕府に背いた罪で裁かれちゃうんですけどね。
命をかけて義を貫いた武士道精神。それが民衆の心に響いて人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台でも演じられ、今でも年末の風物詩として語り継がれてるんです。
忠臣蔵ゆかりの地
こんな感じに語り継がれる赤穂藩士の物語は、おおよその部分が史実にある歴史物語。縁もゆかりもある場所が実在したはずです。
忠臣蔵の発端となった「殿中でござる」事件現場から、安らかに安置された場所まで、都内にあるゆかりの地をまとめてみました。
因縁の始まりはここから
そもそもの発端がここ。現在は皇居東御苑になっている江戸城本丸内の松の廊下跡地 です。江戸城で2番目に長い廊下で、襖絵に松が描かれていたから「松の廊下」と呼ばれてました。
そこで浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる事件が起こって…と赤穂義士の悔恨の始まりがこの場所ですね。
REONの実家から近いねー。松の廊下跡地行ったことある?
あー…うち大手門の正反対、半蔵門だし。っていうか近いのに行ったことないな。
実は私、生まれも育ちも東京で、半蔵門から歩いて2分くらいのところに実家があります。むちゃくちゃ「松の廊下跡地」がご近所さんなんですが、行ったことがございません。
今度ちょっと赤穂義士ぶらり旅実践してきます。
浅野内匠頭の最期の地
江戸城内・松の廊下で「殿中でござる事件」を起こした浅野内匠頭は、将軍・綱吉お気に入りの大名・田村右京太夫のお屋敷に身柄預かりとなります。
そしてとんだとばっちりを受けたのが、現在の東京都港区新橋付近にあった田村家のお屋敷。
田村家お屋敷があった新橋界隈には「浅野内匠頭の終焉の地」なる石碑 が建ってます。終焉の地。
即日切腹となった浅野内匠頭は江戸城内で命が尽きたのかと思ってたんですが、実はここ新橋にあった田村家の庭先で切腹しました。
なので浅野内匠頭の最期はこの場所だった、ということですね。
綱吉公のお気に入り大名になれたことは名誉なことですが、自分のお屋敷の庭先でハラキリとは。
なんか怨念も渦巻きそうで、私なら夜もおちおち眠れなくなりそうな気がします。
仇討ち決戦の地・吉良邸跡地
赤穂義士によって討ち入りされた吉良邸は、現在の東京都墨田区両国界隈 。このあたり一帯2550坪もの大きなお屋敷でした。
現在はその一部、元吉良邸の北の敷地内にあった一画(約30坪弱の広さ)が本所松坂町公園というゆかりの地になってます。
公園?じゃぁ中に入れるんだ。
公園って言っても井戸や桜の木、ちょっとした忠臣蔵にまつわる展示とか吉良家の石碑とかがある場所だよ。
赤穂義士の討ち入りの後、幕府にお屋敷を没収されて住宅地になり、吉良家の屋敷は一旦は消滅してます。
が、昭和に入ってここら辺の地元の有志の方々が土地を購入し、東京都に寄付して記念公園が出来たんだとか。
区立公園になるので、特に入園見学料はかかりません。付近は普通の住宅街ですが、討ち入りの日であった12月14日には「義士祭」なる地域主催のお祭りもあるそうです。
ご近所の住人の皆さんの迷惑にならないよう、義士祭を見学してみたいなと思いました。
それぞれの魂が眠る場所
浅野内匠頭は切腹ののち、現在の東京都港区高輪の泉岳寺 に葬られました。そして浅野家に忠節を尽くし、吉良上野介への仇討ちを果たした赤穂四十七士も同じ場所で眠っています。
泉岳寺は赤穂事件を起こした浅野内匠頭と赤穂義士が葬られている曹洞宗の寺院です。毎年4月初旬と12月14日には「義士祭」という供養行事が執り行われます。
境内には赤穂義士ゆかりの所蔵品がある赤穂義士記念館もあって、多くの参拝客が訪れるそうです。中には外国から来た観光客もいて、もしかしたらハリウッド映画【47RONIN】で赤穂義士の歴史に興味を持って訪れてるかもしれませんね。
日本では大コケと評価がイマイチだったけれど、海外では割と高評価だった映画【47RONIN】の大まかなあらすじやキャストについてはこちらをどうぞ。
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