江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎。
日本のみならず海外からも高く評価されている北斎には、その類稀なる才能を受け継いだ娘がいます。
父娘二代の浮世絵師、葛飾北斎と葛飾応為の作品をウンチク交えてお届けいたします。
この記事で分かること
- 葛飾北斎の作品をゴッソリと
- 葛飾応為の作品をザックリと
- 北斎と応為の共作をちょろっと
葛飾北斎とその作品
葛飾北斎といえば、言わずと知れた浮世絵師。
…っていうか浮世絵ってなに。
というと、江戸時代に発達した風俗を描いた版画のこと。
風俗といっても、アッチの意味じゃぁございません(←おい)
- プロ絵師の絵は高すぎて、裕福な人しか鑑賞できず
- それを庶民も楽しめるよう版画にして大量生産
- 庶民の生活や風景・当時の世相を反映したユニークな作風がバカ受け
- 一世風靡する娯楽となり、絵画ジャンルのひとつに
- 西洋絵画とはまた違う、日本独特の画風が持ち味
浮世絵には、筆で描いた肉筆画・印刷物となる木版画の2つのパターンがあります。
北斎は若い頃から肉筆画・版画ともに特出した才能があり、生涯で3万5千点以上の作品を発表。
江戸時代の平均寿命は50歳くらいの中、90歳で天寿を全うするまで、亡くなる3ヶ月前まで絵を描き続けたそうな。
ちなみに、2019年の日本人男性の平均寿命は81.41歳。
なんとも御長寿だった北斎は、改号を30回・転居に至っては93回もするという変わり者でもありました。
ただ、溢れる才能に加えて努力も怠らず、ひたすら制作に励み、常に新境地に挑戦。
遙か海を超え、ゴッホやゴーギャンら絵画の巨匠にも多大な影響を与えたとも言われています。
没後150年以上を経てもなお高く評価されている北斎の浮世絵は、その多くが70代以降の作品です。
デビュー作・代表作・晩年作までを集めましたので、どうぞドカンとお納めください。
デビューは20歳、役者絵4枚
安永7年(1778年)、北斎は19歳のときに役者絵を得意とする勝川派に入門。
当時トップの浮世絵師・勝川春章を師と仰ぎ、狩野派の技法や唐絵、西洋画の技法を学び始めます。
入門してすぐに「勝川春朗」の画号をもらい、翌年には4枚の役者絵で浮世絵師デビュー。
- 瀬川菊之丞の図
- 瀬川菊之丞 正宗娘おれん
- 三代目瀬川菊之丞 おそめ
- 四代目岩井半四郎 かしく
作画は、師とした勝川春章の同時期の作風に倣って絵柄を寄せたもの。
なんとも艶めかしく色気のある絵ですね。
このとき北斎、まだ20歳。
師匠には早くからその実力を認められ、多くの役者絵を描き上げていきます。
さらに多色刷の浮世絵版画・挿絵・洒落本・春画・肉筆美人画なども経験。
透視遠近法を用いて建物や風景を描く、「浮絵」と呼ばれる浮世絵風景画も描くように。
前途揚々な絵師デビューを果たし、いっぱしの浮世絵師として順風満帆。
…かと思いきや、寛政6年(1794年)、北斎は33歳のときに勝川派を破門されてしまいます。
どんな理由?こんな理由だろうという話↓
- 勝川派・最古参の兄弟子である勝川春好と不仲すぎたから
- 師匠に隠れて狩野派に出入り、画法を学んだから
- ついでに堤派から中国絵画も会得したから
浮世絵はみな同じではなく、それぞれの派で画法も絵柄も異なります。
つまり、門下に入ったら他派への出入りはご法度。
破門された北斎は、勝川春朗の名で絵師を続けられなくなり、改号して新たな土台で絵を描き続けることになりました。
画本東都遊(えほんあずまあそび )
北斎は、破門された翌年の1795年から「北斎宗理」に改号します。
さらに北斎・可侯(かこう)・辰政(ときまさ)とコロコロ名前を変え、江戸の狂歌人・浅草庵市人の狂歌本の挿し絵を描くように。
狂歌とは、古典和歌の形式で皮肉や時世をパロディ化して詠んだ歌。今でいうサラリーマン川柳ってところでしょうか。
そんなユルい娯楽本が、寛政11年(1799)に墨一色摺で書かれた1冊の本「狂歌東遊」として刊行↓
そこに描かれた北斎の絵そのものに人気が集まり、3年後の享和2年(1802)に《画本東都遊》と改題して再販されました。
しかも今度は極彩色摺。
つまりカラーで増刷され、1冊だったものが上中下の3冊セットに。
江戸の名所や市井の様子、江戸期唯一の世界との窓口・長崎出島のオランダ商館まで描かれています。
このとき北斎は、オランダ商館付き医官として在籍していたシーボルトと面識があり、何枚か自分の絵を渡したようで。
平成28年の秋、オランダ国内の美術館収蔵で作家名の分からなかった風景画6点が、いずれも北斎の作品と判明。
北斎がシーボルトに渡した絵の可能性、大です。
《画本東都遊》の挿し絵を描いていた頃、北斎は42歳。
人気がうなぎ上り、海外進出まで果たしていたということですね。
そうしてこの3年後の1805年、45歳で「葛飾北斎」の画号を用いるようになっていきます。
北斎漫画
江戸ですっかり有名な絵師となった北斎は、個人や版元からの依頼で絵を描くように。
そんなこんなで54歳のとき、文化11年(1812)に絵手本《北斎漫画》を発行します。
絵手本とは、絵の描き方を習うための絵本の一種。
絵師を目指す絵描きのための参考書です。
人物、風俗、動植物、妖怪変化など。
北斎曰く「事物をとりとめもなく気の向くまま漫(そぞ)ろに描いた画」だそうで。
これが絵描きのみならず、庶民から武士まで幅広い層に大好評。江戸時代のベストセラーとなりました。
見て楽しい、真似して描いて絵を学べる。
ちびキャラっぽいポーズ画もあり、今でもバッチリ参考になるスケッチばかり。
当初は1巻の予定だったものが、全十五編・総ページ数883・およそ4000図という大作になり、北斎の代表作のひとつとなりました。
北斎のすべてが凝縮された絵手本《北斎漫画》
カテゴリー別に完全収録、文庫サイズにリメイクした三巻セットでじっくり全部ご堪能いただけます↓
紙本着色鯉亀図
歴史的ロングセラー『北斎漫画』を生み出した北斎は、同じ頃に肉筆画も描いています。
それが文化10年(1813)、54歳のときに制作した《紙本着色鯉亀図》
北斎の長い長い画業の中で、制作年代のわかる基準作例となる作品です。
どこまでも繊細な構図を、黒と藍の濃淡だけで奥行きまで表現。
鯉の目やウロコは生々しく、緩やかなS字線は単純でありながら水の流れを感じます。
ここから北斎の絵はより緻密に、より色使いが大胆に、より魅力的なものへと進化。
《紙本着色鯉亀図》は現在、埼玉県の県指定 有形文化財として保管管理されています。
「埼玉県立 歴史と民族の博物館」の常設美術展示物にて、現物を鑑賞することが可能です。
アクセス情報・休館情報などの詳細は、公式ホームページをご確認ください↓
万物絵本大全図
《万物絵本大全図》は、1829年、北斎が69歳のときに描いた103作からなる木版画用の肉筆下絵集。
これは版木に写し取ったあと、廃棄される版下絵というものです。
…が、まだ未完だったために全103作が保存されたそうで。
この貴重な作品群は1948年のオークションにかけられ、とあるコレクターの手に渡ったものの行方知れずになっておりました。
それが2019年にパリで発見され、現在はイギリスの大英博物館が収蔵品として大事に保管管理しています。
大英博物館では、この《万物絵本大全図》をオンライン公開。
どなたでも無料で閲覧可能・画像ダウンロードも提供されています。
歴史上の人物・神話や宗教画・庶民の歳時記・動物や神獣・植物・風景など。
多岐にわたる構図、細部まで緻密に描かれた《万物絵本大全図》は、こちらからご覧いただけます↓
Collection search “万物絵本大全図” British Museum
富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)
さぁ、ようやく来ました、北斎といったらコレ。
最も有名な代表作《富嶽三十六景》は、天保2年(1831)〜天保5年(1834)に版行されたシリーズもの。
描き始めたのは北斎が72歳の1823年からで、いろんな富士山を描いちゃうよ、というコンセプトがあります。
その第1作目が《富嶽三十六景・神奈川沖浪裏》
どばーーン!と迫力ある波の奥にはしっかりと富士山が描かれ、腰をかがめて必死に船にしがみついてる船乗りがまた可愛いらし。
ギャップ萌えなこの1枚は、北斎画の中でも1番有名かと思います。
富嶽三十六景・凱風快晴
こちらもかなり有名、通称「赤富士」と呼ばれる《富嶽三十六景・凱風快晴》
赤富士とは、晩夏から初秋にかけての早朝に雲や霧と朝陽が上手いこと合わさって、富士山が赤く染まって見える現象のこと。
大きく正面から描いた富士山・麓に広がる樹海・空に浮かぶいわし雲。
さらに山頂の雪渓までもが色鮮やかに描かれています。
北斎が並外れた色彩センスの持ち主であることがよく分かる傑作です。
富嶽三十六景・甲州石班澤
青の濃淡を用いて、手前の波と霞がかった富士山を描いた《富嶽三十六景・甲州石班澤》
この美しい青色は、江戸時代に海外からやってきた「ベロ藍」という人工の顔料です。
北斎はこのベロ藍が大のお気に入りで、かなり高価だったにも関わらず多用するようになります。
というのも、これまでの浮世絵の青は、主に露草や藍から抽出した植物由来。
しばらくすると変色してしまい、版画の染色にはあまり向いていなかったんです。
一方のベロ藍は動物性由来で発色が良く、さらに水との相性が抜群。
北斎はその特性を最大限に活かし、数多くの傑作を生み出したことから、ベロ藍は別名「北斎ブルー」とも呼ばれています。
富嶽三十六景・諸人登山
富嶽三十六景は、その名の通り36枚…ではなく、全部で46枚あります。
初めは36枚三十六景の揃物の予定でしたが、売れ行きが絶好調すぎて十点追加することに。
追加された十点は「裏不二」と呼ばれ、三十六景の完結作となった46枚目が《富嶽三十六景・諸人登山》
北斎が描き上げたこの「揃物」は、名所絵・役者絵・美人画と並ぶ新ジャンルとして、浮世絵界に浸透していきます。
北斎生涯の代表作にして最高傑作「冨嶽三十六景」
天才の技術と着想が極まった全46図を心ゆくまで堪能するなら、こちらの1冊がおすすめです↓
千絵の海
大好評の「富嶽三十六景」が完結した後の1833年。北斎は再び揃物を描き上げます。
北斎ブルーのベロ藍をふんだんに使った、各地の漁がテーマの10図揃物《千絵の海》
なかでも一際目を引くのが、五島列島の捕鯨を描いた《千絵の海・五島鯨突》です。
ずらりと並ぶ船と巨大な鯨、その大きさの対比を用いた構図は大胆かつ繊細。
そもそも江戸時代に鯨漁なんてあったの?
とも思いますが、各藩に鯨取り専門の役所があるほど捕鯨が盛んだったそうで。
鯨漁は男たちの大仕事だった様子がよく分かる1枚です。
千絵の海 下総登戸
漁といっても潮干狩り。
庶民の暮らしぶりを描いた《千絵の海・下総登戸》は、ゆったり流れる時間さえも感じさせる1枚です。
山の緑・海の青が、手前から奥に向かって濃くなっていくグラデーションが見事。
《千絵の海》シリーズは十点と少ないですが、北斎が追求し続けた「変幻する水」の表現は見応えがあります。
諸国滝廻り
北斎は、10枚図の《千絵の海》と同時期に、さらに2つの揃物も発表しています。
そのひとつが、1833年刊行の全国の滝シリーズ全8図《諸国滝廻り》
豪快な滝、馬を洗っちゃう滝など。
縦長の大判錦絵仕様で、落下する水の様々な表情が描かれています。
諸国名橋奇覧
70過ぎて「千絵の海」10図・「諸国滝廻り」8図。
すでに18枚もの絵を描いていた北斎は、同時期の1833年に橋シリーズ全11図《諸国名橋奇覧》も刊行しています。
《諸国名橋奇覧・摂州天満橋》は、大阪・淀川に架かる天満橋と天満祭(天神祭)の様子を描いた図。
橋のアーチと賑わう人々の描写は、虫メガネで細部まで見たい美しさです。
諸国名橋奇覧・飛越の境つりはし
「諸国名橋奇覧」は、日本全国の珍しい橋を描いた名所絵揃物なんですが、伝説っぽい橋も登場。
《諸国名橋奇覧・飛越の境つりはし》は、北斎の豊かな想像力が生んだアクロバティックな1枚です。
吊り橋が細すぎ柔すぎ、弛んでるってどういうこと!?
…と思わずツッコミ入れたくなる、見る者を楽しませてくれる幻想的な1枚。
自画像
歳を重ねるごとにパワーアップしていった北斎って、一体どんな面構えしてたの。
という疑問にお応えすべく、数え年83歳の《自画像》もご用意いたしました。
………なんか怖い、妖怪みたい(>_<)
というのはさておいて、北斎は自らを「画狂老人」と名乗り、老いてなお画道ひと筋の人生を送ります。
酒もタバコも茶もたしなまず、好きなのは菓子の類。
日々の食事に関心はなく、衣服が破れていても知ったこっちゃねぇ。
そんな北斎は晩年になると、多くの肉筆画を残すようになりました。
富士越龍図
雄大な富士を越えて昇天する龍。
《富士越龍図》は、亡くなる3ヶ月ほど前に仕上げた北斎最後の作といわれる墨絵です。
死を悟った北斎が龍を自分に見立て、魂が富士の高嶺に召されていく様子を描いたのでは。
…と解釈されています。
晩年までひたすら絵を描き続けた北斎は、今際の際でこんなことを言ったそうな。
「あと5年。いや、あと10年生き長らえることができたなら、本物の絵描きになれたのに…」
つねに意欲を失わず、さらなる高みを目指していたとは、なんとも天晴れなお方です。
嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、北斎は90歳で人生の幕を閉じました。
生涯を絵に捧げ、沢山の絵を残した葛飾北斎。
被りはあるものの、Google Arts & Cultureにてデジタルで作品集を堪能できるので、ぜひ↓
葛飾応為とその作品
葛飾北斎は90年の生涯で、2度結婚しています。
前妻との間に一男二女、後妻との間にも一男ニ女。
早逝したお子さんもいましたが、ひとり北斎の才能を色濃く受け継いだ娘がおりました。
それが三女にあたるお栄です。
- お栄は北斎をも超える画才の持ち主
- 北斎の画業を支え続け、のちに浮世絵師に
- 画号は葛飾応為。北斎も唸る美人画の名手
- ただし現存する作品は十数点
応為の由来は、北斎がお栄を「おーい」と呼んでいたからだとか。
そして現存する作品が少ないのは、北斎の名でお栄が描いた絵があるからでは?とも言われています。
葛飾応為として世に残した、数少ない作品を集めました。
吉原格子先之図
葛飾応為の作品の中で、最も有名なのが《吉原格子先之図》
《吉原夜景図》とも呼ばれる肉筆浮世絵です。
暗闇に浮かび上がる遊女・客・手元の提灯を、大胆な陰影を用いて表現。
これまでの浮世絵は濃淡はあっても影をつけることはなかったので、応為は新たな技法を編み出したと言えます。
そしてもう一つ、この作品には特徴が。
応為の作品には署名が無いものも多いんですが、絵師としての名前「應」「為」と、本名である「栄」が記されているんです。
…えっと、どこに?
一個ずつ、提灯に。
拡大してもよう分からんですが、これは斬新でユニークなサインですね。
《吉原格子先之図》は太田記念美術館の所蔵品。
ときおり一般公開しているので、現物を鑑賞するチャンスがあります。
アクセス情報や休館情報、展覧会イベントなどは、公式ホームページでご確認ください↓
夜桜美人図
《夜桜美人図》は、応為の得意とする美人画と陰影が合体した傑作。
ほの暗い闇・灯篭に照らし出された女性や着物・樹木などを浮かび上がらせた、「光」と「影」のコントラストが絶妙です。
遠近感のある奥行き、細部まで丁寧な描写。
確かに北斎の才能を受け継いだ、北斎を思わせる部分もありますね。
《夜桜美人図》は、メナード美術館の日本画コレクションのひとつ。
一般公開されたこともあるので、お目にかかれる日が来るかも。
アクセス情報・休館情報・展示会情報などは、公式ホームページでご確認ください↓
関羽割臂図
《関羽割臂図》は、応為の描いた中で最も大きい作品。
右腕に毒矢を受けた関羽・治療する名医華陀・目を背け、逃げ出そうとしている家来が描かれています。
小刀で骨についた毒を削ぎ落とし、血がドクドクと。
生々しい迫力満点のこの作品は、応為の落款がなければ女性が描いたとは思えないほどの力強さです。
圧倒される凄みからは、根っからの絵師だという気迫すら感じます。
応為の作品があまり残されていないことが、実に残念です。
合作と言われる作品
北斎も浮世絵師、応為も浮世絵師。
夢の親子共演はないの?
…というと、共演作はあります。
葛飾北斎が1844年に発表した《唐獅子図》は、唐獅子を北斎が、周りの牡丹を応為が描いた合作です。
肉筆画の制作が中心だった晩年のもので、このとき北斎は85歳。
2年ほど前から厄除けのために「日新除魔」なる墨画の獅子を描いており、そうした北斎獅子図の集大成が《唐獅子図》だと言われています。
百獣の王である獅子を、百花の王である牡丹が彩りを添えた構図は、荘厳かつ華麗。
北斎と応為、2人の天才絵師が積み重ねてきた技法や経験がひとつになった、なんとも贅沢な1枚です。
…ということで、父娘そろって天才絵師・葛飾北斎と葛飾応為の作品をお届けしました。
2人とも、タダモノじゃない感がすごい。
日本絵画の美しさ、浮世絵の魅力に触れていただけたら恐悦至極にございます。
お栄が葛飾応為になるまでの日常を描いた、長編アニメ映画についてもお届けしております↓
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